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近森会の歴史

近森会の歴史

医療法人近森会の半世紀

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医療法人 近森病院の前身、近森外科を開設し、高知で先陣を走る病院までに成長させた近森正博とは、一体どのような人物だったのでしょうか。
病院の規模も職員数も、昔とは比べものにならないほど増加した現在、先人達が残し受け継ぐべき思いを思い起こしながら、昔の写真をまじえながら振り返ります。

第一話 病院前史から病院草創期まで

東大第二外科

医療法人近森会の前理事長である近森正博(1915-1984)は、大正4年に京都市にて誕生する。昭和3年には東京帝国大学医学部(現 東京大学医学部)を卒業し、同年4月東大第二外科の都築外科に入局する。
都築外科では都築正男教授のもと、肺結核に対する外科療法の発展に大いに寄与していた。また、このことが後に近森病院にいちはやく呼吸器科を開設する事に結びついている。

結婚、そして戦地に赴く

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東大第二外科で医局員として勤務をしていた昭和16年、野村茂久馬(もくま)氏の次女と結婚した。
ここでこの野村茂久馬氏を紐解いてみましょう。

野村茂久馬(1870-1960)は、「土佐の交通王」と呼ばれ、高知の近代交通黎明期に陸海運の発展に貢献しバス・鉄道・海運等を手がけた。野村組自動車部(現在・高知県交通)や野村組工作所(高知重工)の創設者でもある。また、坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの銅像を建てるため奔走する青年達に、バスの無料乗車券を発行する等の支援をした。(参考:Wikipedia)

さて話は戻り、昭和16年の10月、東條内閣が成立し大東亜戦争へ向かう時代に、突如として正博は歩兵連隊に臨時召集される。この時の部下に衛生兵として寺尾佐多馬氏(近森病院初代事務長)と出会う。

この間、ビルマ(ミャンマー)戦線へと出発する前の4ヶ月間に学位論文「肺結核選択的肺形成術療法施行時に於ける呼吸器機能検査法ならびにその成績について」をまとめ、終戦直前の昭和20年に医学博士の学位を戦地にて授与されている。
終戦地は仏領印度支那(カンボジア)のプノンペンで迎える。

なお、写真は大戦の応集当時に撮影された正博である。

野村茂久馬邸跡

戦地から帰国してから、再び東大第二外科に戻るか、故郷の高知で開業するか悩んだ末に、やがて満州より引き上げてくる父や兄の職場を確保するために、都築教授の了解を得て「近森外科」を高知の地で開業する道を選んだ。
開業する場所として空襲で消失した野村邸跡地に決めた。義兄の野村好久氏の好意もあって、その地に木造平屋建物約60坪の診療所が建設された。現在の近森病院本館の南側部分に当たる。

建物の資料は敗戦直後とあり、詳しい資料は残されていないが近森外科は東西に抜ける廊下を挟み、南北に部屋があったようだ、南側中央に入り口があり両側が病室であり、現在の病院の姿からは想像もつかないが、待合室や病室は畳が敷かれていたようである、病室にはベッドはなかった。
北側には診察室、処置室、手術室、受付、薬局、便所、炊事場が設けられていた。

写真は、戦前の旧野村邸の北西部分にあった洋館

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第二話 病院草創期

南海地震の三日後に開院

昭和21年12月21日の早朝、紀伊半島沖を震源とするマグニチュード8.1の大地震が発生し、高知の町や村を襲い多くの死傷者をだし、家屋の倒壊、田畑・漁船の被害を出した「南海大地震」が近森外科開院の3日前だった。
近森外科は診療所の建設工事は壁面部分のみが完成して、内部は廊下すら出来ていない状態であった。この様な状態であるが地震当日には怪我をした患者が診療を求めて飛び込んできた。
ただ、この地震で診療所も当然被害を受けており、戦後物が不足しているなか苦労して開院の為に集めていた薬品類のほとんどが使えなくなっていた。ただ、診療所として正式に使用許可が出ていなかった。この様な事態から正博は診療開始を急ぎ、内装工事をともかく済まし、使用許可がおりたのは地震発生から3日後の12月24日であった。

このようにして「近森外科」は波乱の幕開けとなった。

新聞広告にみる病院の歩み

いつごろから新聞に広告が掲載されはじめたかの資料はないが、昭和22年5月の高知新聞には近森外科の広告が載っている。

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翌年の昭和23年には正博院長の父である近森正基、兄の近森正文らが大連より引き揚げてきた。
また、昭和24年の5月の新聞広告には、3名の医師と薬剤師が見られ、近森外科は病院への道を歩みはじめようとしていた。

近森外科から近森病院へ

昭和24年6月には近森病院の開設許可を受け、近森外科の北に木造2階建ての病室、厨房、看護婦詰所、浴室などの増築工事が始まった。

同年8月の高知新聞広告には近森外科に替わって近森病院の文字が入り、9月には新築落成の文字が入っている。にもかかわらず昭和25年2月1日に近森病院玄関前で撮影された記念撮影には近森外科の立て看板と近森外科の焼き付けが見て取れる。昭和39年以前の資料が残っていないので、詳しい経緯が不明である。

記念撮影と医療法人近森会開設時の見取り図.jpg

昭和25年10月には有限会社近森病院が設立されている。しかし、昭和23年の医療法で営利を目的として医業を行うことが禁止されている。その結果、会社組織による医業の経営は法的に認められなくなった。
そのため翌26年9月に高知県で2番目に医療法人として許可された。

第三話

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