相談役 近森正幸のひとりごと soliloquy

相談役 近森正幸のひとりごと

相談役 近森正幸のひとりごと

[2021年10月] 石川さんの思い出 ~近森での回復期リハビリテーション病棟事始め~

社会医療法人 近森会
理事長 近森 正幸 

石川さんに最初にお会いしたのは、1977年で私が外科医だった頃、群馬大学脳外科からサポートで2カ月、脳外科医として近森に来て下さった時でした。フォガティカテーテルによる大腿動脈血栓除去術を一緒にして、手術が上手いと褒めて頂いたことを覚えています。

石川さんがリハ医として働いていた虎ノ門病院分院を辞める時、20病院ぐらいからオファーがあったようですが、高知が四国山脈と太平洋に囲まれ、地域リハビリテーションが可視化でき展開しやすかったこと、街中の救急病院の隣で温泉リハビリではなく都市型リハビリテーションを確立したかったこと、何より当時の近森病院は組織が未成熟で、リハ医療を院内で確立しやすかったことと、理事長、院長の私が40歳になる前で若くて柔軟だったこと、救急病院で結構利益が上がっていたことなどを石川さんはしっかり考え、近森に来て下さいました。今では常識になっていますが、当時は石川さんの地域リハビリテーションや都市型リハビリテーションの発想は非常に斬新で、目から鱗の思いでした。

石川さんは赴任時、優秀な虎ノ門病院の看護師も連れて来て下さり、駅前の分院で1986年6月リハ科を新設、病棟の高いベッドの脚を切ることから始め、リハビリテーションの中核であるリハ看護師やリハスタッフを養成するとともに、リハビリテーションの素晴らしさを近森に広めてくれました。その後、エレベーター付き2階建てのプレハブでのリハ病棟の実践を経て、近森病院の隣地に1989年12月近森リハビリテーション病院を開設して頂きました。開院祝いの石川さんご夫妻の誇らしい笑顔、地元の先生方の驚いた顔、何より5階のリハ訓練室に柱がなく、天井の高いワンフロアの広いスペースで、リハスタッフの誇りの為にこのような素晴らしい訓練室を作ったという石川さんの言葉を今でも覚えています。

石川さんが赴任前の近森病院はPT、OT、STの3職種は揃っていましたが、数も少なく訓練室でのリハのみで、寝たきり患者が全病床の2/3を占め、その上澄みで救急医療を行っていました。回復期リハビリテーションの確立により、急性期と回復期が分離され、それぞれの機能に絞り込むことで、近森リハビリテーション病院は全国有数の全館回復期リハ病院に、近森病院は全病床を救命救急医療に絞り込み、救急搬送件数では中四国で3番目、高知でトップの屋上にヘリポートを有する救命救急センターにまで発展することができました。

石川さんがリハビリ砂漠と言われた東京で、リハ医療を展開する夢のために高知を離れる送別会の時、「石川先生は日本の国を治す“大医”だ、畳の上では死ねないね」と言って送り出しましたが、最後まで自転車をこいで往診され、私たちみんなのリハビリに賭ける思いを人生をかけて実現してくれたように思います。